"CD/WD"
@小沼純一

舞台の音楽でありつつ、舞台の音楽のアルタナティヴな可能性、ありようとして聴かれるべきアルバム、それが、CD版『W.D.』(= What have we done?)である。
『W.D.』は2000年1月に「ワーク・イン・プログレス」として第一章が上演されて以来、2001年12月に全四章が統合されるまで、少しずつ成長してきた作品だ。あらためて強調するまでもなく、パパ・タラフマラの舞台にとって、音楽は「重要な意味を持っていた」という常套句を越えた位置にある。役者はダンサーであり、音楽家でもある。それは演戯する身体と踊る身体が「おなじ」ところに戻ることと、台詞を発し、叫び、歌うのが「おなじ」声であることと重なっている。そのなかで、音楽は、パパ・タラフマラの舞台に、沈黙、音楽がない状態とともに、しっかりと時間的・空間的に、組み込まれているものなのだ。
『W.D.』は、複数の音楽家が章ごとにコラボレートしているのが特徴で、音楽も4人――菅谷昌弘、中川俊郎、種子田郷、レスリー・スタック――の音楽家(もちろんほかにも、役者の身体がなんらかのかたちで発する音なども含まれるだろうが)。オーケストラやバンドの音、アナログな機械性をシミュレートし、ひとつの音風景を作り出している菅谷、アコースティックなピアノやトイピアノで、シンプルでありながら、楽器のひびきを生かしている中川(ちなみに彼は、舞台にもあがってトイピアノを演奏する)、電子音で抽象的な、空間性のあるサウンドをつくっている種子田郷、各曲の規模が大きく、一種のドラマ性をもってもいるスタック。音楽家各人が異なったキャラクターを持っていることが、舞台としての広がり、奥行き、変化を生みだしている。
さて、冒頭に記したように、このアルバムは、舞台としての『W.D.』のなかでひびかせられるのとは別の、もうひとつの「CD」として聴かれるべき作品である。舞台なら、第一章から第四章まで時間的順序に従って生起するし、そのなかで音楽も第一章にはこの曲とあの曲というふうに割りふりがなされている。だが、アルバムとしては、この時間的な順序はシャッフルされ、全く新しいかたちに組み替えられているのだ。例えば、アルバム冒頭に置かれているのは第三章「So What?」から、つづいて第一章「I Was Born」、第四章「The Sound of Future Sync」からとつづき、また第三章からとなる。以下については省略するが、つまりは、ここでは舞台上の進行では捉えることのできない音楽のありようを提示すること、ひらたくいえば、舞台の「サウンドトラック」であるよりは「リミックス」を目指したものといえるかもしれない。
実際に舞台を観たひとがこのアルバムを手にし、音楽を聴くと、舞台上で進行していたながれの記憶が多少なりとも攪乱されるにちがいない。逆に、つまり、音楽を聴いていたひとが、後で舞台に接しても、同様のことは生じうる。これは、しかし、けっして排他的ではないのだ。どちらでもありえてしまうこと、舞台は舞台で音楽がひびき、その順序があり、一方は音楽がCD作品として別個に構成されるという、オルタナティヴなありようが、ここでは成立している。それと同時に、アルバムを音楽として聴くだけではなく、音楽が舞台とともにあることを――たとえ実際には観ていなくても――想起し、想像すると、逆に自分なりの架空の舞台が浮かび上がってもくるだろう。もちろんこれは『W.D.』の現実の舞台を裏切っていることになるのかもしれないが、ここにある音楽は、充分に舞台喚起的なものであることも確かではないだろうか。
「いま・ここ」で可能となる『W.D.』の舞台とは別に、「いつでも・どこでも」散種される音としての『W.D.』のアプローチが、このCDというメディアとして、成り立っている。

>>このウィンドウを閉じる